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ザビ神父の証言

ザビ神父の証言

第一次世界大戦(51)~(66)

第一次世界大戦(51) 

ヴェルサイユ条約

こうして5ヶ月をかけて、パリの講和会議は、ようやく対ドイツの講和条約を作りあげました。全文で440条に及ぶ膨大なものでした。

その第1編は、ウィルソン提案にあった国際的平和機関として、国際連盟の創設をうたっていましたが、既に指摘した通り第2編以下のドイツに関する部分は、ドイツを厳しく制約するものでした。そしてこの間、ドイツには何の音沙汰もなく、ただ連合国の協議が終了するのを待たされただけでした。

ドイツにとって、これが敗戦の現実でした。戦勝国の中でも英・仏・米三国の密室の協議が、条約のほとんどを決したのです。そしてその内実は、仏・英二国の対立と妥協に立ったゴリ押しが、ウィルソン流の理想主義を次第に骨抜きにし、両国の都合を優先させるものでした。

こうして完成した講和条約案を、ヴェルサイユに呼びつけられたドイツ代表は、一切の弁明も反論の機会も与えられずに、ただ受け入れることだけを強要されたのです。その際連合国側は、「5日以内に、この条約案を受諾しない場合は、休戦中の戦闘をただちに再開する」という、脅迫的な内容の通告までつけていたのです。

ドイツは、押しつけられた講和案をそのまま受諾するしかありませんでした。休戦を申し込む際に、ドイツの政治家が描いていた最も悲観的な見通しよりも、さらに厳しい現実がそこには待っていたのでsづ。

ヴェルサイユ条約は、こうして6月28日に調印されました。5年前にサラエボ事件の起きた、まさにその日でした。舞台はヴェルサイユ宮殿の鏡の間、1871年にドイツに敗れたフランスが、アルザス・ロレーヌを割譲させられた屈辱の講和条約を結ばされた場でした。

復讐は将来の明るい展望を開かない。そんな未来を予感させる出来事であったように、この事実を振りかえるたびに、私は考え込んでしまいます。

第一次世界大戦(52)  

サン・ジェルマン条約

第一次世界大戦は、ドイツ側同盟諸国との戦いでした。その中心は確かにドイツでしたが、ドイツとだけ講和すれば済むものではありません。しかるにヴェルサイユ条約は、ドイツ1国との講和条約であって、同盟を構成したオーストリア=ハンガリー、ブルガリアそしてオスマン帝国は、蚊帳の外におかれたままでした。

ドイツとの講和後、連合国はまずオーストリアと、ついで大戦末期にオーストリアからの分離独立を宣言していたハンガリーと、そしてブルガリアと,最後にオスマン帝国とと、順次講和を結ぶ積りだったのですが、ハンガリーで革命がおきたために、ハンガリーとの講和は、ギリシアとの戦闘を続けていたオスマン帝国との講和と共に、先送りされることになりました。

オーストリアは、ハンガリーの自治権を認めつつも中欧になお強大なハプスブルグ帝国を保持しておりました。しかし,世界大戦の敗色が色濃くなる中、ハンガリーが独立の道を選び、チェック人もまたマサリクの指導の下に独立の道を選ぶなど、大戦末期には、オーストリアの地位は大きく揺らいでいたのです。

講和会議は、ソヴィエトの代表を参加させないまま、ブレスト=リトフスク条約を廃して、旧帝政ロシア領については、フィンランド、ポーランド、バルト三国の独立を決定していました、

特にポーランドは、ドイツ、オーストリア,ロシア3国に分割されていましたから、ドイツ,オーストリアの持つポーランド領も、夫々の手から取り上げられ、独立が認められたのでした。

オーストリア支配下のチェコとハンガリー支配下のスロヴァキアも、統一したチェコ=スロヴァキアとして独立を認められました。ハンガリーの独立も正式に認められました。またクロアティア、スロベニア、ボスニア・ヘルツェコビナの分離を飲まされ、これら地域はセルビアと連邦を組んで,ユーゴスラヴィア連邦として独立することになりました。

さらにオーストリアは、イタリアとの係争の地であったチロルとトリエステの割譲を余儀なくされました。フィウメもまた独立の自由市となりました(同地は1924年に、ムッソリーニの手でイタリアに併合されます)。

オーストリアはこうした領土制限と軍備の縮小、賠償義務などを盛り込んだ講和案を押しつけられ、反論の余地なく受け入れざるを得ませんでした。そのオーストリアが連合国に要望したのは、ただの1点だけでした。

それは、帝国の要素をすべて剥ぎ取られる以上、もはや独立オーストリアでいる必要はなく、ドイツ共和国の1州としてドイツと合併する事を認めてほしいということでした。しかし、オーストリアのこの要望は、ドイツの大国化を警戒する英仏が受け入れるはずがなく、無視されたのでした。

こうしてオーストリアは、国土面積と人口が共に4分の1という小国の姿に変貌したのでした。

かくして、社会主義のソヴィエト・ロシア(後ソ連)とドイツとの間に北からフィンランド・バルト3国・ポーランド・チェコ=スロヴァキ、ハンガリー・ユーゴスラヴィアと民族自決の名の下に、独立を達成した国々が並んだのです。

それは、ドイツの大国化を牽制し、かつ社会主義のソヴィエト・ロシアを封じ込めるための、米・英・仏3国による巧妙な仕掛けでもあったのです。

第一次世界大戦(53)  

ヌイイ条約

1915年10月にドイツ・オーストリア側に立って参戦したブルガリアとの講和条約が、19年11月に結ばれたヌイイ条約でした。パリ近郊のヌイイ=シュール=セーヌにブルガリア代表を呼びつけて結ばれたものでした。

ブルガリアは長くオスマン帝国の支配下にありましたが、1875年バルカン半島のセルビア・モンテネグロ・ボスニアなどと共に、オスマン帝国からの独立運動を起こし、この間紆余曲折がありましたが、1878年のサン-ステファノ条約とベルリン会議を経て、オスマン帝国内の自治国の地位を獲得しました。ツルゲーネフの『その前夜』が描く、ブルガリア独立運動はこの時期のことを描写しています。

その後、1912~13年の2度のバルカン戦争で、セルビアとマケドニアの領有を争って敗れたことから、セルビアに深い遺恨を抱いていたことが、ドイツ・オーストリア側に立っての参戦の理由でした。

当初は優勢に戦いが進みましたが、次第に形勢は逆転、マケドニア戦線はイタリア・イギリスらの連合軍の制圧するところとなり、1918年9月の戦闘でブルガリア軍は崩壊してしまいます。劣勢のドイツ、オーストリアにブルガリア救援は不可能だったため、万策尽きたブルガリアは、9月27日に休戦を申し出、29日に休戦が成立していました。

ドイツ側同盟諸国で,最初に白旗をあげたのがブルガリアだったのですが、講和は先ず、ドイツそしてオーストリアと行われ、革命中のハンガリーを後回しにして、3番目に呼び入れられたのがブルガリアでした。

ブルガリアは新たに誕生するユーゴスラヴィア、ルーマニア、ギリシアの3国に領土を割譲することを強いられ、さらに軍備の制限と4,5億ドルの賠償を押しつけられたのです。このうち賠償額は後に8,400万ドルに減額されましたが、貧しい小国の国民にとっては、大変な負担となりました。

小国の施政者のポピュリスムが、前後を弁えずに、国民のナショナリズムを煽ることが、いかに無責任で危険な事かが良く分かる事例を、ブルガリアのケースは示してくれています。最近の日本も、この点に気をつけたいものですね。

第一次世界大戦(54)  

ハンガリーの革命

マジャール人を中心としたハンガリーは、長くハプスブルグ帝国とオスマン帝国に国土を支配されていたのですが、オスマン帝国の弱体化とフランス革命とナポレオンの時代の思潮に影響されて、19世紀中頃から独立運動を強めました。1848年のヨーロッパ革命の時代には、コシュートをリーダーとする革命派が1時政権を握ったこともありました。

その後、オーストリアから一定の自治権を認められ、1866年の普墺戦争後は、オーストリア皇帝をハンガリー王とする条件での独立を認められ、全く独立の議会を持つ、オーストリア=ハンガリー二重帝国を形成して、第一次世界大戦を迎えたのでした。

ドイツ側同盟諸国の敗色が強まった1918年に入って、オーストリアからの敢然独立の空気が強まり、同年秋、ハンガリー民主共和国として独立、オーストリアとの絆を完全に断ち切ったのです。

この動きをリードした開明貴族のカーロイは、講和を進めながら土地改革を目指しましたが、保守派の抵抗にあって失敗、1919年3月にブタペストで蜂起した、ベラ=クンを指導者とするハンガリー=ソヴィエト派が政権を獲得するに到りました。

クンは大戦に従軍中に、ロシア軍の捕虜となり、ロシア革命とソヴィエト運動を目撃して、その熱心な支持者となった人物でした。

政権を握ったクンら革命派は、地主や教会の所有地、銀行や工場等の国有化を急ぎましたが、とりわけ伝統や農村特有の慣行を無視した土地国有化方針は、伝統を重視する農民層の離反を招き、ルーマニア、ユーゴスラヴィア、チェコスロバキアなど周辺諸国との対立までうまく利用した連合国の干渉に屈し、19年8月ハンガリーのソヴィエト革命は、崩壊の憂き目をみたのでした。

この時期、ロシアのソヴィエトも諸外国の支援を受けた反革命戦争を戦っており、ハンガリーの仲間へ救援の手を指し伸ばすことは出来なかったのです。

第一次世界大戦(55)  

トリアノン条約

ベラ・クンらのハンガリーソヴィエト革命が連合諸国の干渉によって、敗北した後、連合国はようやくハンガリーとの講和に向けて動き、1920年6月になって、ハンガリー代表をヴェルサイユ宮殿内の別棟トリアノン宮に呼び出し、ここで対ハンガリーの講和条約を結びました。なお、トリアノン宮とな別に近くにプチ・トリアノンがあります。フランス王ルイ16世妃マリー・アントワネットがお気に入りの側近達と篭っていたのは、このプチ・トリアノンの方です。

トリアノン条約でハンガリーは、ルーマニア、ユーゴスラヴィア、チェコ・スロバキア、そして何とオーストリアにまで領土の割譲を強いられる破目になり、さらに軍備の制限や賠償義務を課されたのでした。

この結果、ハンガリーの国土面積は、3分の1に制限され、人口はかつての4割となったのです。とりわけ、ハンガリー国民にとって,怨嗟の的となったのは、同胞のマジャール人300万人が国境の外に居住することになったことでした。オーストリアやドイツに引きづられた戦争であっても、弱小の敗戦国は、特にひどい目に合わされるのですね。

第一次世界大戦(56) 

オスマン帝国の解体とトルコ

オスマン帝国、1453年にビザンツ帝国を滅ぼし、イスラム世界とギリシャ正教世界を統治する大帝国を形成し、ヨーロッパの国際関係にも常に大きな影響を与えていたこの国は、しかし、長期の君臨による金属疲労から、19世紀に入ると瀕死の重病人と呼ばれるまでに弱リ果てた国、腐った「大国」になっていました。

1912年にバルカン同盟を構成したバルカン諸国が、オスマン帝国からの独立を目指した第一次バルカン戦争にも敗れ、バルカン諸国の独立を認めなければならないほど、この国の力は衰えていたのです。

そのため、1915年にドイツ側に立って連合国に参戦した後、オスマン帝国軍は実質的にドイツ軍の丸抱えに近い状態にありました。

大戦末期、戦後における独立の密約(フサイン=マクマホン協定)を武器に、オスマン帝国領内のアラブの地域に反乱を組織することに成功したイギリスは、アラブ人部隊と共に大挙してエジプトからパレスティナ、シリアに侵入しました。またインド駐留軍とインド人部隊を動員して、イラク方面からも侵入を果たしました。

この英軍の侵入を獅子奮迅の活躍によって、アレッポの線で辛うじて食いとめたのが、現在でもトルコ独立の父として、尊崇されているムスタファ=ケマルでした。

しかし、ブルガリアの降伏とそれに伴うドイツ側戦線の崩壊とドイツの敗勢が、もはや帝国の態をなさなくなっていた「トルコ』の戦闘能力を奪ってしまったのです。ここにトルコは、18年10月31日、遂に降伏して、トルコにとっての第一次世界大戦は終ったのでした。

休戦条約には、「連合軍が安全を脅かされた場合、いかなる戦略上の拠点をも、占領する権利を有する」と記されていました。実際に、休戦協定成立後オスマン帝国の首都だったイスタンブールは、連合軍の占領下におかれましたし、列強によるオスマン帝国領の分割が、現実に進行しはじめたのです。
イギリスの前の首相アスキスは「病人は今度こそ死んだ」と語ったと言われています。

第一次世界大戦(57) 

ギリシア軍の侵入

首都のイスタンブールを連合軍の占領下に置かれたオスマン帝国では、スルタンのメフメット6世は、形式的にその地位を保っていましたが、事実上は連合軍にとって好都合な傀儡に過ぎなくなっていました。

英・仏・伊の各国軍が夫々自国に取りこみたい帝国内の各地に軍を進め、列強によるオスマン帝国領の分割の動きが進行しつつあったのです。オスマン帝国はトルコ族のトルコに縮小する、こうした動きでした。

そこへ、勝者連合についていたギリシアが悪乗りして、「新ビザンチン帝国」建設を夢見るようになったのです。その実現が今こそ可能になったと、夢想したギリシア政府は、イギリスの支持を頼りに、古代の植民ポリスの遺跡が残る、イズミール地方占領の許可を連合軍司令部から手に入れたのです。

ムスタファ=ケマルは、ギリシア軍のイズミール侵攻の翌日、連合軍とスルタンから、トルコ軍の動員解除とアナトリアの治安回復の命を受けました。彼は、イスタンブールを船で離れると。黒海沿岸のサムスンに渡り、三つの軍団を傘下に置き、ギリシア侵入軍に対する抗戦と抵抗を呼びかけました。

この呼びかけに各地の民衆や軍団が応じ、スルタンへの忠誠、領土の防衛、臨時政府の組織などが次々に決議されて、アナトリア各地の軍団や地方の長官、イスラム聖職者などの広範な支持を集めました。イスタンブールでもケマルらの動きに呼応するデモが起こり、スルタンもまたケマルとの妥協を模索する動きを見せました。

11月の総選挙では、連合軍に対する抵抗派が多数を占め、1920年1月、議会はトルコ領土の保全と国家的独立などを盛り込んだ、6ヶ条の「国民誓約」を決議したのです。アナトリア西部では、国民軍がギリシア軍への抵抗を拡大し、フランス軍がロシアの反革命軍へ送る予定だった小銃や機関銃、弾薬などをすっかり奪い取ることにも成功したのです。

3月、イギリス軍中心の連合軍はイスタンブール全市を占領し、多数の民族主義者を逮捕して拘束、マルタ島に幽閉する挙に出ました。

これに憤慨したムスタファ=ケマルらは、アンカラにトルコ大国民会議を召集して、イスタンブール政府を否認、新政府の誕生をヨーロッパ各国に通知したのです。
トルコにとって、戦争はなお終っていなかったのです。

第一次世界大戦(58) 

セーヴル条約のペテン

1919年4月30日、ムスタファ=ケマルらは、アンカラにトルコ大国民会議を召集し、イスタンブール政府を否認、新政府の誕生をヨーロッパ各国に通告しました。

しかしスルタン、メフメット6世はアンカラ政府を否認、欠席軍事裁判でケマルら一党に死刑判決を下して、ヨーロッパ列強に対してこれを承認しないよう求めました。ヨーロッパ列強にとっても、スルタンの政府の方が、何かと好都合なため、オスマン帝国分割に不都合なアンカラ政府の無視を続けました。

ムスタファ=ケマルと、彼の下に結集したトルコ人の多くは、スルタンに大国民会議の承認を求めて止みませんでした。彼等の多くは帝国主義とギリシア軍の侵入から、「イスラムの地」と「イスラムの民」を守ろうとして立ちあがったのです。そうであれば、スルタンは守るべき対象だったのです。

しかし、スルタンは終始一貫英・仏の言いなりでした。彼は自らの地位に恋々として、英・仏の保護に期待を寄せていました。彼は国民を裏切り、国を売ることも辞さなかったのです。

ウィルソンが病に臥せった4月、英・仏はこれ幸いとサン-レモ協定を結んでアラブ地域を「委任統治領」と定めて、これを分割する挙に出たのです。こうした中で、1920年8月、オスマン帝国スルタンの代表を、パリに近いセーヴルに呼び出し、この内容をセーヴル条約としてスルタンの政府に押しつけたのです。

セーヴル条約には、アラブ地域の放棄(イギリスとフランスで分割)の外にも、トラキア、エーゲ海諸島、イズミール地域をギリシアに、さらにイタリアやフランスにも領土を割譲した上、ダーダネルス・ボスフォラスの両海峡を国際管理下に置くことが明記されていました。それだけではありません。軍備の制限、そしてトルコの財政は英・仏・伊3国の共同管理下に置くこと、治外法権を認めることなどまで、記載されていました。

これはトルコの民族的独立を完全に否定するものでした。スルタンの政府は、こうした屈辱的内容の講和を拒否することもせず、唯々諾々とそれに署名したのです。アンカラに篭ったトルコ大国民会議とケマルの政府はこれを、真っ向から拒否しました。トルコ民族の正当政府を名乗り、国民の多数が支持するアンカラの政府が否定する条約は、当然ながら有効な条約とはいえません。

これがセーヴル条約の正体でした。従って、対トルコに関しては、講和はなお整っていなかったと理解した方が良いのです。

第一次世界大戦(59) 

新生トルコの抵抗

アンカラのトルコ大国民会議とケマルの政府は、セーヴル条約を否定しました。イズミールのギリシア軍、イスタンブールと海峡を抑える英・仏軍、アドリア方面のイタリア軍、東北方面のアルメニア軍、そしてクルディスタンにもイギリス軍と、四方をセーヴルの屈辱的条約の承認を迫る勢力に包囲され、まさに四面楚歌の状態でした。

その上、アナトリア高地においてさえ、親英・親スルタンの反動勢力が暗躍していました。こうした状態の中、ケマルを中心に団結した政府と国民会議は、ほとんど徒手空拳で、戦争に疲れた貧しい国民を鼓舞しながら、連合国に敢然と立ち向かう気概を見せたのでした。

この行為はほとんどゼロから出発して、国を築こうということですから、まさに苦難の道でした。指導者のムスタファ=ケマルは、大戦前から各方面での軍事的困難に立ち向かった経験を生かして、難局を切り開こうと務めました。トルコにとっての救いは、連合国が決して一枚岩ではなく、異なる思惑を抱いて、分裂の可能性を秘めていたことでした。

ケマルは、20年5月にシリアの経営に手を焼くフランスとの休戦に成功し、同年12月には、ロシア革命の影響で誕生したアルメニアのボルシェヴィキ政府と結んで、アルメニア軍の撃破に成功します。そして翌21年3月には、モスクワのソヴィエト=ロシア(=ソ連)と相互承認条約を結び、2世紀に渡って続けられたカフカーズ方面の国境問題を解決し、合わせて共に連合軍の干渉に悩んでいるソ連からの軍事援助を引き出すことに成功します。同じ時期に経済的に苦しくなったイタリア軍も、トルコから撤退しました。

この間、アナトリアの反乱分子の策動も抑えて、1921年1月には、ミトハト憲法(日本史の教科書では、1889年=明治22年制定の大日本帝国憲法をアジア最初の憲法と記すことが多いのですが、西アジアをも含めるとすると、オスマン帝国のミトハト憲法は1876年制定ですから、日本に23年も先行しています。大日本憲法は東アジアで最初の憲法とするなら、正しいのですが…)を修正して、国民主権とその代表機関としての大国民会議の存在を規定した新憲法(基本条項と当時は表現していました)を採択しました。

同じ月、21年1月には、ソ連から到着した武器で装備した新生トルコ軍が、最大の敵ギリシア軍に最初の勝利を記録します。

前年7月以来、イギリスはセーヴル条約の履行をギリシア軍に委任するという口実を設けて、ギリシア軍のアナトリア中央部への侵入を支援していたのですが、この侵入ギリシア軍をイネニェの戦いで、トルコ軍が初めて敗退させたのです。

トルコ政府は、敵方の内部分裂を捉えて、大部分の兵力を対ギリシア戦に向け、ギリシア戦の勝利に全力を傾注したのです。状況もまた新生トルコに味方しました。

第一次世界大戦(60) 

ギリシア軍の撤退

ギリシアとの戦闘が激しさを増す中、国際情勢もトルコに味方しました。イギリスとの対立が目立ち始めたフランスが、1821年10月、ムスタファ=ケマルらの政府と秘密条約を結び、密かに軍需物資を供給してくれるようになったのです。これはもう、連合軍の仲間割れでした。

これに先立ち、1921年8月、ギリシア国王が自ら指揮するギリシア軍と、トルコ軍の主力が激突し、3週間亘るサカリヤの戦いが繰り広げられたのです。トルコ軍にとって、まさに国家の存亡左右する大切な戦いでした。兵士の士気の高さの差が、勝敗を分ける鍵となり、トルコが勝利したのです。

ギリシア軍の「新ビザンティン帝国」建設計画は、一場の夢と消えたのです。ケマルは、新生トルコの元帥に推されました。しかし、トルコ軍には、ギリシア軍を決定的に国外へ追い遣るまでの力は、まだありませんでした。

それから1年後、1922年の8月になって、イズミールはようやくトルコ政府の手に帰したのでした。しかし、退却するギリシア軍は、行きがけの駄賃とばかり、悪逆非道の焦土戦術をとったため、アナトリア西部はまさに焼け果てた廃墟の如きありさまになったのでした。

9月末、ギリシアに革命が起き、長期に亘って戦争を続け、国民の和平への願いを無視し続けた王政は、廃止され、国王は追放されました。余勢を駆ったトルコ軍は、イスタンブールへと迫り、イギリスは海峡防衛の観点にたっての共同出兵をフランスとイタリアに要請したのですが、何の回答も得られず、やむなく10月、新生トルコとの間でムダニア休戦協定を結んだのでした。

この協定で、ギリシアはトラキアの放棄も約束せざるを得なかったです。徒手空拳から出発したトルコの踏ん張りが目立ちました。

第一次世界大戦(61) 

スルタンの追放

トルコ軍の優勢とギリシア軍の撤退によって、セーヴル条約の正当性を主張することは困難になりました。ここに連合国は、トルコとの講和条約を改めて協議する必要に迫られました。1922年10月28日、トルコとの講和問題を改めて討議するために、ローザンヌで会議を開く旨が連合国から関係諸国に送られました。

ムスタファ=ケマルはこれを受諾、10月31日付けで連合国に通知したのですが、姑息な事に連合国はイスタンブールのスルタンにも、同じ招請をしていたのです。連合国特にイギリスの策謀でした。

スルタンの政府はセーヴル条約締結の過程を見ても明らかな通り、もはやトルコ国民の政府ではなく、完全に連合国特にイギリスの傀儡でした。トルコの独立と民族の誇りを守るための、アンカラの政府と国民の必死の戦いを、何もせずに見ていたどころか、アナトリア高地の反動分子の策謀を裏で支援もしていたのです。

トルコ国民はその事実を感知していました。ケマルの指導の下に、トルコの独立を守り、民族の誇りを死守してきた国民は、この期に及んで施政者ヅラをしようとするスルタンの厚顔無恥に、呆れると同時に怒りました。これまでのスルタンの行動、一貫して国民のことを考えず、自らの地位を守ることしか考えなかった、反国民的で売国的な行動が、次々に暴露されて行きました。

スルタン排撃の声は国の隅々にまで及び、スルタン擁護の論陣を張った御用新聞の記者は、白昼のイスタンブールの街頭で、興奮した群衆の手でなぶり殺される事件まで起きたのです。イギリスの姑息な行動が招いた悲劇でした。

この情勢下に、アンカラの国民議会は、ケマルの提案を受けて、満場一致でスルタン制の廃止を決議しました。ケマルは次ぎのように提案主旨を説明しました。
「自らの裏切り行為によって、メフメット6世は、本来彼が留まるべき地位に留まれなくなった。彼は自殺したに等しい。自らの行いによって、彼はその政権の瓦解を不可避にしたのだ」と。

メフメット6世は、イギリスの軍艦でマルタ島へ亡命したため、国民議会は彼からカリフの地位も没収し、次代カリフには、彼の甥にあたるアブデュル=メジトを推挙しました。ここにカリフは一切の政治的権限を持たない、宗教上の権威のみを持つ存在と規定され、アンカラのケマル政府が完全にトルコ国民を代表することになったのです。
ローザンヌ会議はアンカラ政府の主張に耳を傾けざるをえない状況で始まりました。

第一次世界大戦(62) 

ローザンヌ条約

1922年11月ローザンヌで始まった講和会議は、あくまでセーヴル条約の正当性を主張して、微修正で済まそうとするイギリスの強硬姿勢と、ゼロからのやり直しを主張するトルコの主張が真っ向から対立して、冒頭から暗礁に乗り上げました。

フランス外相は1時休会を宣言して間をとり、5ヶ月後の23年4月に再開することで、冷却期間をおいたのです。これが奏効して歩みよりの機運が生まれ、特にイギリスは代表団を全面的に入れ替えて、これに応じました。

ケマルの政府が実力を増し.トルコ国民の大多数に支持されている事実は、イギリスにとっても動かし難い現実であることを、認めざるを得なかったからです。

こうして1923年7月24日、ローザンヌ条約は締結されました。この条約によって、トルコは西欧諸国と対等な立場にある独立国となりました。アナトリア高地を中心とするトルコ固有の領土は保全されました。治外法権や連合国によるトルコ財政の管理は廃止されました。軍備の制限も撤回されました。

ダーダネルス・ボスフォラス両海峡は、依然として国際管理下にあって、各国に開放されることになりましたが、トルコは国際会議の議長国となって、面目を保ちました。

ドイツ、オーストリア、ハンガリー、ブルガリアと第一次世界大戦の敗戦国は、いずれも屈辱的な講和を受け入れるしかなかったのですが、トルコが前条約の廃棄と新たな条約の締結を勝ち取ったことは、アジア・アラブの民族運動にとって、大きなプラスになりました。

喜んだトルコ国民は、自分達の指導者ケマルにアタテュルク(トルコの父の意)の尊称を贈り、以後ケマルはケマル=アタテュルクと呼ばれるようになったのです。

その後のトルコのことに簡単に触れておくと、1923年19月には、共和制宣言が出され、ケマルは初代大統領に就任しました。24年3月にはカリフ制も廃止され、オスマン王家は海外追放となりました。5月新憲法が発布され、イスラム法裁判所も廃止されました。イスラム暦は太陽暦に替えられ、トルコ帽や婦人のヴェールの着用義務も廃止されました。さらに1928年には憲法の第2条、「イスラム教を国教とする」という条文が削除されたのです。ここにトルコは世俗主義に立つ国家となったのです。

外交面では、ケマルは「新しい友を作り、旧い友とも対立せず」という主張に則り、中立主義外交を推進してトルコの安全確保を図ろうと努めました。

ローザンヌ条約の締結によって、第一次世界大戦の同盟国との講和は完了しました。しかし、なお、アラブやインド、中国などの状況がどうなったかを見る必要があり、この項はもうしばらく続きます。

第一次世界大戦(63) 

アラブ地域の戦後

アラブ地域の戦後がどのようなものであったかも、触れておかなければなりません。

1915年のフサイン-マクマホン書簡、16年のサイクス-ピコ協定、そして17年のバルフォア宣言といった、相互に矛盾する秘密協定の存在については、大戦中の秘密外交の項で指摘しました。

パリ講和会議は、こうした相互に矛盾する協定や口約束の数々といった、解決しなければならないツケを片付けなければなりませんでした。そこに、ロシア革命とウィルソンの14ヶ条がアジアヤアラブの住民の間に呼び覚ましてしまった「民族自決」の希望にもある程度応じなければならないという事情もありました。

しかし、遠いアメリカのウィルソンは勿論、クレマンソーやロイド=ジョージも、ヨーロッパの問題に対応するのが精一杯で、アラブ・中東への関心と理解はあまり持っていなかったのです。

そして会議の実権を握った3人の周囲には、様々な要求や陳情が寄せられたのです。フサインの息子ファイサルはアラブの代表として講和会議のメンバーでしたが、事実上は陳情者のような扱いを受けていましたが、彼に託された「アラブ帝国」建設の夢を実現しようと孤独な奔走を続けていました。

そこに共に独立という要求を掲げながらも,三派に分裂して修復できないアルメニア人代表や、ワイズマンを先頭にユダヤ国家の建設に期待するシオニストのユダヤ教徒たち、そして実力者達にとっては、その意見には耳を傾けざるをえない、銀行家や聖油業者、海運業者といった経済界の実力者たちからも、アラブ世界を巡って様々な要望が齎されていたのです。

第一次世界大戦(64) 

続・アラブ地域の戦後

こうした状況から、1919年の段階では、アラブ地域に関しては何もまとまりませんでした。しかし、この間中東地域では地殻変動が生じつつありました。イギリスが何も起こらないだろうとしていた地域でも、民族自決への目覚めが進行していたのです。

アラビア半島では、シリア各地で選出された代表達が、シリア国民会議の名で、アラブ国家の建設を決議しました。ファイサルを王とするパレスティナを含むシリア王国と、ファイサルの兄アブドラを王に戴くイラク王国の建設、サイクス-ピコ協定とバルフォア宣言の拒否、さらに委任統治の拒否がその内容でした。

パリの講和会議でのファイサルは、こうした民族的要望を背負っていました。しかし、遊牧の民を組織し、イスラームの知識人(宗教指導者)を説得することに長けたファイサルを、ロイド=ジョージやクレマンソーは、ただの陳情者にしか扱いませんでした。

そこに、父フサインの軍が、サイード家のイブン=サウードの軍に大敗したという報が伝わりました。ファイサルには、もはや英・仏の委任統治の下で、シリアにおけるハーシム家の王位を確保する以外の道は残されていなかったのです。

こうしてアラブ民族主義は、サイード家のサウジ・アラビアやイェーメンなどが独立国となりましたが、トランスヨルダン、シリア、イラク等は英・仏の委任統治領という名で、実質的には両国の植民地の地位に押し込められ、イギリスの黙認の下で、パレスティナには、シオニストのユダヤ教徒たちが、続々と押しかけてくる状況が生まれたのです。

現在に続く、パレスティナ問題の根は、イギリスのエゴイズムが招き、それをアメリカが拡大再生産しつつ、現代に至るのです。

第一次世界大戦(65) 

第一次世界大戦と日本

日本が第一次世界大戦に、早い段階で参戦したことは、既に触れました。1914年8月の参戦は、日英同盟を参戦の口実として利用する形で、日本が強引に割り込んだ形で実現したのでした。

英・仏・露3国は、山東におけるドイツの根拠地と青島(チンタオ)のドイツ東洋艦隊を軍事的に抑えるためには、日本の協力を仰ぐしかなく、やむなく日本の参戦を認めたのでした。

日本にとってヨーロッパの国際戦争は、中国進出の足場を固める絶好の機会と映ったのでした。参戦の目的は打倒ドイツにあったのではなく、中国進出の足場固めにあったのです。ですから日本は参戦はしても、遠いヨーロッパの戦場に、兵を派遣する意志は全く持っていなかったのです。

日本に対しては、日本の参戦以降、何度もヨーロッパ戦線への派兵の要請がなされているのですが、その都度日本政府は「帝国軍隊の唯一の目的は、国防にあるので、遠くヨーロッパの戦場に兵を送ることは、その本来の目的に合わない」として、ニベもなく断っていました。艦隊の派遣についても、1916年までは断り続けていました。

世界戦争の主要舞台に兵を送らない姿勢にこそ、日本の真意が透けて見えます。日本の参戦目的は中国における利権の拡大にあり、陸軍は参戦2ヶ月で、青島を陥れています。海軍もまたドイツの東洋艦隊を蹴散らして、9月中ごろまでに、ドイツ領南洋群島の赤道以北の部分を占領しました。

行き場を失ったドイツ東洋艦隊は、ユーラシア大陸沿いにドイツに戻ることが出来ず、太平洋を東に航海して、アルゼンチン沖に達したところで、イギリス海軍に捉えられ、フォークランド島沖の海戦で撃滅されています。この結果、ドイツは海上の覇権を失って、植民地との連落の術を失い、経済封鎖状態に追い込まれるのです。この点では、日本の行動が、確かにヨーロッパの戦局に遠く影響を及ぼしていたといえるのです。

第一次世界大戦(66) 

対華21ヶ条要求

中国と太平洋におけるドイツ権益を確保した日本は、1915年1月、中華民国(清国は1911年の辛亥革命で倒れ、混乱の中で、一応中華民国が成立していました)大総統袁世凱に対して、「対華21ヶ条」要求を突き付けました。

その要求は
1、青島占領後、事実上日本が管理している山東におけるドイツ権益の継承
2、25年間とされた南満州の権益期間を、さらに99年間延長すること
この2点を基本に、さらに
3、中国の政治・軍事・財政に関わる顧問として、日本人を招聘すること
4、中国の有力各地の警察を日中合同の組織とすること
5、中国軍は日本の兵器を装備し、日中合同の兵器廠を設立すること
といった、中国の主権を完全に無きものとするかのような、図々しい要求も含まれていました。

要求を突き付けられた袁世凱は、ヨーロッパ各国の支援が得られない状況に鑑み、ヨーロッパ各国に、密かに日本の度外れた要求を知らせると共に、アメリカ合衆国にも、助けを求めました。また、回答期限の引き延ばしを図り、逐条的に検討する手を使いました。

中国民衆の愛国心も大いに沸き立ちました。早くも2月11日には、東京在住の中国人留学生が会合を開いて、日本の要求に抗議の声を上げ、やがて中国各地の都市で,激しい排日運動が起きました。世論の後押しを受けた袁世凱も、下手な妥協をすることは出来なくなりました。交渉は難航を極めました。

結局日本は、最も露骨で破廉恥な要求と見られていた第五項(例示した3~5)を取り下げ、遂に5月7日には袁世凱に最後通牒を突きつけ、要求を認めさせたのです、
中国民衆の怒りは激しく、各地で反日運動が続き、日本軍を悩ませ続けることになりました。


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